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TOKYO

 

 

~温故知新の東京散歩~「東京」の都市の街並み、表情をビル写真とともに巡る写真集

~知っているようで知らない東京~

温故知新の東京散歩 江戸切絵図より大江戸大名小路絵図 (国立国会図書館デジタルコレクション) いつも自社ビルの周辺は何度も通りかかっている場所なのに…
こんなところに、こんなものがあったって気が付かなかった…
この地名って、そういう由来があったのか…
へえ~、あの偉人が住んでいたのか…
目の前にあるビルだけでなく、少し視点を広げて周辺の歴史を探してみると、それまで何気なく通り過ごしていた場所にも、思わぬ歴史の発見があって、面白いかもしれません。
「温故知新」の諺のように、東京オリンピックに向けて続々とビルが建つ東京の未来を考えるためには、せかせかと通り過ぎるだけでなく、少し立ち止まって、そこにある歴史を覗いてみることも、きっと何かのヒントを与えてくれるような気がします。

GINZA

「銀ぶら」と言われる銀座の街歩きが楽しい秘密…
~「銀ぶら」の生みの親は明治の偉人達だった~

image01 明治時代の銀座の街並み(国立国会図書館デジタルコレクションより) image01 明治時代の銀座通り(国立国会図書館デジタルコレクションより) 「銀ぶら」という言葉の由来は「銀座でブラジルコーヒーを飲む」なのか「銀座の街をぶらぶら歩く」なのか、諸説ありますが、いずれにしても銀座の街を歩くとなぜかウキウキと楽しい気分になる、そんな街です。
銀座の街は、いくつかの通りが整然と縦横に通っており、それらには通り名がつけられて親しまれています。
さて、そんな銀座の街は、何となくぶらついていても楽しい、という理由はなぜでしょうか?
今の銀座の道路ができるきっかけとなったのは、明治5年2月の大火後にできた火災に強い街づくりとしての「銀座煉瓦街」の計画のようです。この銀座煉瓦街は関東大震災により今では存在しませんが、専門家によると、煉瓦街計画は、当時の東京府知事の由利公正や、大隈重信と、井上馨らが談論風発の中で考え出したものを、大隈と井上が正式に発議したもののようです。
この煉瓦街計画の主な柱は「街路計画」と「煉瓦造り建築」の2つですが、「計画道路」とかがいつになったら本当にできるのかわからないような今の時代から考えると、火事からわずか1週間程度で計画決定し布告されたというのは驚きです。
そして、この計画の中で決められた道路の幅が、今の銀座の街並みにつながっているのだそうです。
江戸時代の街道の幅はおよそ13~15mで、道路はもっぱら歩くためのものでしたが、当時、世界の大都市のロンドンやニューヨーク等の大通りが45m前後もあったことから、どのくらいの道路幅にすべきかがいろいろと議論されたようです。
そして、道路幅を決める決定的な根拠がみつからない中で議論は揺れ動きましたが、最終的に約27mに決定したということです。
その結果、晴海通りが約18m、横丁(東西の通り。今の松屋通り、マロニエ通り、みゆき通り等)と裏通り(今の並木通りなど)は約14m、その他の道は約5.5mという街路構成が決まりました。(晴海通りだけは関東大震災後に拡幅されています)
そして、これらの道路には歩道もつけられたのですが、実は江戸の街道幅に歩道部分を拡幅した、ともいえる道路幅だったのだそうです。
(出典:「銀座街づくり計画」より引用要約)
つまり、「銀ぶら」が楽しいのは、世界の大都市並みの45mもの道幅でなく、江戸時代の歩道中心の感覚が絶妙に残された、この時の銀座煉瓦街の道路計画の27mという道路幅を基準にしたおかげかもしれない、ということです。
今では考えられないような僅か1週間程度というスピードでこの道路計画を考えた大隈重信や井上馨等の明治の偉人達こそが、言葉の由来はさておき、「銀ぶら」の真の生みの親だった、というわけです。

昭和通り

昭和通りは大震災後の計画で108mの案もあったようで すが、約44mになっています。

歩行者天国

27mの中央通り。もし昭和通りのように44mもあった ら、歩行者天国はやってないかもしれません。

銀座7棟のポールスタービル案内板

第23ポールスタービルのエントランスにある銀座7棟のポールスタービル案内板。

第4ポールスタービル

第4ポールスタービル

第5ポールスタービルの エントランスホール

第5ポールスタービルのエントランスシャンデリア

並木通り~滝山町を銀ぶら

ショッピングだけでなく、歴史探訪しながら「銀ぶら」してみると…
こんなところにこんな歴史を発見しました。

ビルのない時代・・・・江戸時代、ここは町人の街でした。
第22ポールスタービルは建替前は「滝山町ビル」と呼ばれていました。
江戸時代はこのあたりは「滝山町」という地名だったことからそれをビル名にしたものです。
その由来から今の銀座6丁目の前は「京橋区滝山町」という地名でした。
また、明治の詩人「石川啄木」はこの滝山町にあった朝日新聞社に3年間勤務していた関係で、 銀座6丁目の歩道に「石川啄木の歌碑」が建立されています。
銀座の人びとが啄木没後満六十年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立しました。
並木通りの第4ポールスタービルのすぐ近くにある歌碑です。
知っていて見に来る人はいるかもしれませんが、知らずに銀ブラしてる人で これが「石川啄木の歌碑」だと知って足を止める人はなかなかいません。

清貧なイメージで早世した天才詩人!?

26歳という若さでこの世を去った石川 啄木は、
残された短歌の内容等からも清貧なイメージの人物像ですが…

真偽のほどはわかりませんが、ネット検索等で調べてみると、どうも、そういう真面目な世間一般のイメージとは異なる人間味あふれる?人物だったらしいエピソードも出てきます。 今なら、銀座のクラブをハシゴするような人物だったのかも…ここに石碑があるのはそういう理由ではないですが、本人は喜んでるのかも!?

旧ビル名「瀧山町ビル」の第22ポールスタービル

第1ポールスタービル

第5ポールスタービル

アドバンスシティプランニングの銀座営業所がある第2ポールスタービル

第23ポールスタービル

第26ポールスタービル

AKASAKA AKASAKA MITSUKE

大岡越前から勝海舟まで、偉人の日常生活に
想いをはせて歩いてみませんか?

image01 赤坂といえば勝海舟邸が有名ですが、他にも江戸後期から明治の史跡がたくさんあります。 例えば「赤坂見付」って駅の名前は…
近くに「赤坂見付」があるからですが…
「赤坂見附」って、何のことでしょうか?
実はこれが「赤坂見附」です。

見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことですが、赤坂見付けは石垣だけが遺構として残っています。

隣り合っている第9ポールスタービルと第10ポールスタービル

偉人が多く集まる街「赤坂」

「赤坂」の地名の由来は大岡越前?
「赤坂」と言えば勝海舟ですが…お墓が赤坂にある訳ではありません

赤坂に歴史上の著名人、偉人が多く集まるようになったのは、やはり徳川幕府になって江戸城下町に近いという立地が関係しています。その中でも、とりわけ有名な偉人、著名人と言えば、例えば、次の2人でしょうか。 大岡越前 旧赤坂小学校があった場所はテレビドラマや時代劇でよく取り上げられる、大岡越前守こと大岡忠相の下屋敷があったことで有名です。 大岡越前が紀州出身だった関係でここは「紀州屋敷」と呼ばれていましたが、当時の赤根山または茜山と呼ばれた高台に位置し、ここに向かう坂道を赤根山(茜山)に向かう坂という意味で「赤坂」と呼ばれて、これが地名になったのではないかとの説があるようです。そして、この紀州屋敷の広大な敷地の一部に現在の迎賓館赤坂離宮があるのだそうです。 勝海舟~赤坂に住んでいたことで有名な海舟ですが、お墓は赤坂にはありません。 赤坂で歴史上の有名人として多くの人の頭に浮かぶのは、やはり勝海舟でしょうか。 氷川神社の近くで、赤坂六丁目の氷川小学校(現在は赤坂小学校に統合され廃校)は勝海舟の住居跡として有名です。 海舟は最初は24歳の時に赤坂田町(現・赤坂三丁目)に移ってた当初は極貧生活だったようですが、それから13年後に赤坂元氷川(現・赤坂六丁目)に転居し、この時代には大政奉還時の大活躍をしました。 その後は徳川慶喜とともに静岡に移住しましたが、明治政府の協力要請で再び赤坂に居をかまえたのが氷川小学校の場所にあった武家屋敷だそうです。 しかし、海舟は赤坂に居を構える一方で、池上本門寺で西郷隆盛と会見した頃に通りかかった洗足池付近の自然が気に入り、この近くにも別邸を構えていました。その関係で、赤坂の自宅で亡くなった後は、洗足池畔の墓地に眠っています。赤坂にはお墓はないのでお参りしたい方は要注意ですね。 自然の多い洗足池でひっそり隠居

赤坂迎賓館の一郭に大岡越前が住んでいたんですね。

こちらは墨田区吾妻橋にある勝海舟の銅像

SHIBUYASHIBUYA DOGENZAKA

のどかな牧場も今や世界の観光地。
若者も旅行者も交差する街…

image01 東急ステイ渋谷として営業中の渋谷北辰ビル 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)
その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造って住んだことが、道玄坂の地名の由来といわれていますが、道玄は山賊だったとの話も残っているようです。 山賊が闊歩していたあたりが、こんな都会になるとは・・・・悠久の時の流れを感じます。
この近くに住んだ芥川龍之介・柳田國男がここを通って通学し、坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出していたそうです。

渋谷発展の歴史

明治時代の渋谷には牧場があった!?

江戸時代の渋谷は当初は江戸のはずれにある農村でした。
その後、都市の拡大で東側が次第に武家屋敷となっていき「都市近郊の地」として発展しはじめ、明治大正の頃には都市化、工業化の波が押し寄せて農村的な部分は次第に衰退しました。
それでも、明治大正時代の渋谷には農村の頃の名残で、牧場も存在していたのだそうです。
まさか、今の渋谷の場所に、明治大正時代になってもまだ牧場があったとは、なかなか想像がつきませんね。 。

MAP

渋谷マークシティWEST入口脇の与謝野晶子歌碑の後ろに道玄坂道供養碑があります。

スクランブル交差点

牛もびっくり!の世界的観光スポットになった、スクランブル交差点

ヒトの牧場

広い交差点は、上から見ると「ヒトの牧場」に見えなくもない…?

IKEBUKURO

<池袋発展の歴史>渋谷よりも、
もっと農村だった池袋~商売には縁起のいい街

池袋北辰ビル ビックカメラが入居する池袋北辰ビル 池袋北辰ビル 明治時代には渋谷にまだ牧場があったというのも驚きですが、池袋周辺も渋谷以上にのどかな農村風景が広がっていた場所だったようです。そんな池袋が発展したきっかけは、やはり渋谷と同じく鉄道のターミナル駅となったことでした。
今でこそ、日本を代表する大きなまちにまで発展(はってん)をとげた池袋ですが、戦後のはじめは何もない焼け野原でした。そして戦後のヤミ市ができたり、複数の鉄道の終点となって多くの人が集まり発展しました。
今では想像がつかないような農村地帯だった池袋周辺ですが、歴史探訪してみると、多くの文化財や歴史的建造物を巡ることもできます。例えばフランクロイドライト設計で重要文化財に指定されている自由学園明日館、東京都の歴史的建造物に指定されている立教大学池袋キャンパス、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園等、少し歩けば見どころも多数あります。
一方で、今の池袋駅周辺のビル群をみてみると、西武百貨店や東武百貨店の本店、他にも多くの有名店の1号店の店舗があります。池袋からスタートしたり本店を置いた企業のその後の発展をみると、商売に縁起のいい街なのかもしれません。

池袋の地名発祥の地は今何処?

池や田畑があったのどかな農村がビジネス成功のスタートの街へ…?

現在の池袋西口の近く(ホテルメトロポリタンの付近)にかつて「丸池」と呼ばれる池があり この池が袋型をしていて「袋池」と呼ばれていたとする説があり、丸池はもうありませんがこの池を偲んでメトロポリタン北側付近にこの史跡が残されたようです。
元池袋史跡公園と名付けられていますが公園というほど広くありません。写真はあえて掲載しませんので興味ある方は探して訪ねてみてはいかがでしょうか。いずれにしても、昔は池や田畑もあるのどかな場所だったようです。

池袋まで徒歩9分のCOCOFLAT池袋。

フランク・ロイド・ライトの設計による自由学園明日香館は重要文化財として公開されています。ここで結婚式もできるみたいですね。

池袋には本店や1号店が多い商売に縁起がいい街

NIHONBASHISUITENGU

なぜ壇ノ浦の露と
消えた平家の神社が日本橋に?

水天宮北辰ビル 水天宮駅の出口に位置する水天宮北辰ビル 水天宮北辰ビル 水天宮の発祥は、今から約820年前。
平清盛の血をひく安徳天皇が源氏との壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、母の建礼門院と共に波間に露と消えた1185年、安徳天皇8歳のときです。
その後、有馬忠頼公により現在の久留米市瀬下町に壮大な社殿が建立されましたが、江戸時代の参勤交代の間は水天宮にお参りができないということで、第九代頼徳公が久留米から分霊をして、現在の港区にあった江戸屋敷内に水天宮を祀りました。
これが、1818(文政元)年、東京水天宮のはじまりですが、その後、明治4年に屋敷の移転と共に赤坂に移り、さらに翌年、現在の蛎殻町に移転しました。

日本橋七福神巡り?

七福神なのに神社が八つあるって…?

日本橋の七福神巡りをしようと思って調べていると…なぜか神社が八つ出てきます。
「水天宮」だけは「水天宮神社」とは呼ばないので、違うのかも…いえいえ、水天宮もれっきとした神社です。
神社別の神様をみてみると… 「小網神社=福禄寿」「茶ノ木神社=布袋尊」「水天宮=弁財天」「松島神社=大国神」「末廣神社=毘沙門天」「笠間稲荷神社=寿老神」「椙野森神社=恵比寿神」、そして、 「寶田恵比寿神社=恵比寿神」…
という訳で、恵比寿様を祀る神社がかぶっていたんですね。
恵比寿様と言えば七福神の中でも商売の神様にして唯一の日本出身の神様ということで、とてもポピュラーな神様で、狭いエリアに神社が2つもあったという訳で、さすがは恵比寿様。
この中で、寶田恵比寿神社は通常は無人の神社ということもあって補欠的な扱いの神社のようです。七福神巡りには「寶田恵比寿神社」ははずしてもかまいませんが、「水天宮」のお参りは外せない神社ですので、くれぐれもお間違え無きように。

水天宮

水天宮

末廣神社

末廣神社

寳田恵比寿神社

寳田恵比寿神社

松島神社

松島神社

笠間稲荷神社

笠間稲荷神社

小網神社

小網神社

茶ノ木神社

茶ノ木神社

椙森神社

椙森神社

SHINJUKU

新しい宿場「新宿」
~歴史にみる発展の法則~

新宿イメージ
新宿のアイランドタワーの前にあるLOVEのオブジェクト。
最近は撮影スポットとしても人気になっています。
ACP管理ビル アドバンス・シティ・プランニングが設計も管理もお引き受けさせて頂いているビルがある新宿東口付近。
江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)の翌年に、日本橋を起点として五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)が定められ、各街道にはそれぞれ一定数の宿が置かれていましたが、 その中で、甲州街道は日本橋から最初の宿場である高井戸までの距離が長く旅人が困っていたため、中間地に宿場が設置されました。
この宿場は、内藤氏が幕府に返上した敷地内で、また新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、これが今の「新宿」の地名の由来となったということです。
一方、「新宿区」という区の歴史をみると、新宿駅自体は既にありましたが、昭和22年に旧四谷・牛込・淀橋の3区が統合してできた新しい区でもあります。
これらの統合前の区の地名は名付けられた頃の土地の特徴として、四谷は武蔵野の荒野にあった四つの茶店、牛込は牛の牧場、淀橋は淀んだ川にあった橋、とかが由来という説もあるように、
いずれも今でいう「都会」ではなかった地域です。
しかし、江戸時代に「内藤新宿」という宿場町ができて交通の要所となったことが今日の発展のきっかけになっています。
やはり交通の要所が発展するのは古今東西、普遍的な歴史の法則ですね。


内藤新宿イメージ
「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」
馬のお尻のアップからの奥行きのある宿場町を覗いた大胆な構図の歌川広重の浮世絵ですがこれが実は「内藤新宿」の宿場を描いたものです。
五街道の中では交通量は少なめだったという甲州街道ですが、この絵からは、五街道と言われただけの賑わいが感じられます。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

新宿をリーズナブルに家族、グループで心おきなく楽しめる

「COCO SHUKU 中野」

中野区は都心のベッドタウンとして発展した街で、生活利便性と交通利便性を兼ね備えたエリアです。 特に、新宿には近く、丸の内線の新中野駅から徒歩2分にある「COCO SHUKU 中野」なら、家族やグループ利用で新宿を心おきなく楽しめて、ホテルよりもリーズナブルでホテル並みに設備も充実しています。



ROPPONGI-AZABU NISHIAZABU

<六本木・麻布の歴史>
歴史あるお寺が多い地形的理由とは?

image01 幕末の剣士「沖田総司」の墓所のあるお寺。
後ろに見えるタワーは六本木ヒルズレジデンスが見えています。
image01 六本木ヒルズよりはるかに低い北辰本社ビルですが…
一緒のフレームに納めてみました。
六本木と言えば、東京ミッドタウンもありますが、まずは先にできた六本木ヒルズ、六本木ヒルズと言えば、「毛利庭園」、毛利庭園と言えば、赤穂浪士という感じでしょうか。赤穂浪士が切腹した場所というと少し血生臭いイメージで、幽霊が出るとか出ないとかの都市伝説も出てきて、トンデモ話になってしまうので、別の歴史を探してみましょう。
実は、当社の本社ビルのすぐ近くには、若い女性に人気のある幕末の剣豪「沖田総司」のお墓のあるお寺があります。
残念なことに、今は年に一度の特別な日だけ一般客もお参りができるようですが、複雑な事情があるようで、沖田総司のお墓参りの件でお寺の方への問い合わせ等は、一切厳禁のようです。詳細が知りたい方は、沖田総司のファンクラブのようなものがあるらしいので、そちらに確認してみてください。
さて、この界隈は、このようにお寺が多いのですが、実は麻布地域は江戸時代以前から由緒ある神社仏閣が集まっていた地域なのです。
日本の中心がまだ関東ではない時代から、麻布地域が海を見下ろす南向きの高台だったという地形上の理由で神仏を祀るのに相応しい場所としてお寺が多く建てられた場所だったのです。
江戸幕府以降は高台に武家屋敷、低地には商人や職人が住むようになりましたが、 現在あるお寺は1000年以上続くお寺と、その後にできたものが混在し、たくさんのお寺があるという訳です。

沖田総司のお墓がなぜ西麻布に?

なぜ沖田総司のお墓が西麻布にあるのか、気になって調べてみると、
そもそも沖田総司が生まれた場所が西麻布だとわかりました。

江戸時代の古地図でこの辺りを眺めてみると、この沖田総司のお墓のあるお寺に近い弊社の本社ビルがある付近は、阿部播磨守下屋敷のあった場所らしき位置関係です。
阿部播磨守というのは陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)の藩主です。
沖田総司の父と言われている沖田勝次郎は、白河藩主阿部播磨守の家臣で江戸詰めだったため、沖田総司の生家はこの下屋敷のなかにあったということのようです。
そして、テレビ朝日通りに沿って何軒か並ぶお寺は阿部家に関係するお寺だったため、沖田総司の生家の代々の檀那寺の専称寺に葬られたというのが、彼のお墓が西麻布にある理由でした。

江戸切絵図より麻布絵図(国立国会図書館デジタルコレクション)



東京湾のマジックアワー